空に見えた不気味な雲。窓ガラスから通してみたその空には、人面雲が浮いていた。
私は目が離せなかった。
決して良い天気とはいえない曇天の曇り空の中、その場所だけ晴れている様な違和感。
目前傍らに座っている教師と認識している人物に声を掛けた。今は調理実習の試食会中だ。
「先生、人の頭に電極を埋めて殺害できますか」
特に驚いたような様子もなく、教師は淡々と答えた。長く癖のない黒髪に、化粧浮きしないほどの白肌。目はやや細いといった方で、容姿端麗といって良い。
すっと向けられた視線に、ほんの少しだけ物怖じしそうな感覚が浮かぶようなきもしたが、不思議とそれをはっきりと感じることは出来ない。
「電極である必要性はわからないけれど、頭に異物を埋めれば殺害できるでしょうね」
目の前の食事は味がない。やわらかい石のように感じる。飲み物はまるで砂のようだと思いながらも、人に悟られぬようと静かにそれを口に運んだ。
「――・・・ああ、先生」
「こんにちは」
もう一人と教師がやってきた。ふと外を見上げてみると、人面雲はもうない。今思い出せば、人面雲は額に何かを埋めたかのように四角く盛り上がっており、目や口、鼻から血液が流れていたように見えていた。
やってきた教師に目を向ける。時代遅れのような袴姿に、丈の長い白衣。保険医だった。
私の目は、その袴に差され、隠されている何かに集中した。嫌な予感がした。
咄嗟に身を守る術を考えた。ポケットに何が入っている? 馴染みの刀は手元にはない。もっているのはカッターナイフ一本だけだ。
調理室だから、包丁ぐらいはあるだろう。自分は刃物しか使えない。
「先生、それは―――・・・」
袴に差された『何か』について訊いてみようとした。だが、それは傍らから飛び出した血液と、いつのまにか抜かれた袴の何かを横薙ぎに振る姿に止められた。
どろり、とした赤い液体。血液の匂いが部屋中に一気に充満した。私以外の生徒は逃げ惑うが、保険医が閉めたのであろう、扉から出ることはできなかった。
私は静かにカッターナイフを取り出して、見据えるようにして保険医を見た。男性にしては長い茶髪に、疲れきったような目。実年齢は20代だと推測できるにもかかわらず、ぱっと見の印象はそれよりも年老いて見える。肌の色は健康的とは嘘にもいえないほど、灰色がかった肌色をしていた。
「・・・・・・・・・・・・」
掛ける言葉はなかった。保険医は敵だと判断する以外に何もない。
ぎちぎちぎち、と音を立ててカッターの刃を最後まで出した。保険医はにこりとも笑いかけることはなく、卑しそうな笑顔を向けてきた。逃げ惑う生徒は、相変わらず脱出できていない。
「 」
保険医が何かを言った。私は冷静に頭に血液が上っている感覚を感じたが、その言葉は聞こえない。何を言ったのか、私には分からない。
窓ガラスが割れた。黒い長身の人影が飛び込んできた。項の部分だけ伸ばして束ねた青黒い髪が印象的だ。
私と保険医の間に飛び込んで、保険医が斜め下に構えた粗末な柄の、剣とも刀ともにつかわない刃物を軽く短いナイフで受け流した。私はカッターナイフを右手に持って、受け流されてバランスを崩した保険医の首筋に突き立て、切り裂いた。
赤黒い血液が流れるが、保険医は表情を変えることもなくまた向かってくる。私はバックステップで一二歩後ろに飛び退り、私と保険医の間に再び青黒いの人物が飛び入る。
「刀!」
私は叫ぶように青黒い髪の人影に声を掛けた。今はない!という返事が直ぐに返ってきて、舌打ちをするほかにない。
青年らしい低すぎず、高すぎずの声の青黒い髪の人影は、分厚く布を巻いただけの腕で剣とも刀ともにつかわない刃物の攻撃を受け流していた。
私は直ぐに武器を探すことにした。カッターナイフでは切れ味が悪すぎる。ふと保険医を見れば、その白衣は己が血液で部分部分赤黒く染まっている。
とりあえず、隙が出来るまでカッターナイフで再び斬る事にした。青年が相手をしているタイミングを狙って保険医の背後に回り、もう一度首を逆から切ろうと思った。だが、保険医は青年に向けて横に振った刀をそのままの勢いでその場で回転し、背後にいる私にまで刃を伸ばしてきた。
咄嗟の判断はいつも使っている刀と同じ反応。カッターナイフを相手の刃との間に入れ、防御しようとした。だが、所詮カッターナイフ。強度は相手のお粗末な刃物よりも確実に低い。
あっさりと相手の刃は私の顔に達し、頬に深い切り傷が出来た。口の中にまで来ているらしく、口の中に強い血液の味がする。先ほどまでの食事とは大違いだと思った。
「・・・・・・・・・っう」
うめくような声が漏れる。時間差で壁に叩きつけられた。左肩が痛い。肩の骨にいくらか強いダメージがあったようだった。
だが、その痛みと共に、頬の傷もなくなる・・・治る感覚がした。慣れきったそれに、戸惑う事もなくあっさりと立ち上がる。心配そうな青年の青い目と視線が交錯する。
決意したような、そんな妙に先を見据えたような感覚が湧き上がってきた。保険医の足をすくおうと、たって直ぐにしゃがみ込み、足払いを掛けた。
こちらが気絶でもしたものだと考えて青年に標的を向けていた保険医はあっさりとしりもちをつくようにして倒れた。驚いた様子の保険医がこちらを振り向こうとした瞬間、首の背骨の隙間にカッターナイフの刃を突き刺した。目が飛び出しそうなほど目を見開いた保険医は直ぐに絶命した。カッターの刃が喉にまで達していたのか、「ぼぽ」と不気味な音を立てて口から血液の泡を吹き出した。
「遅いよ、王様」
「すいませんでした、アリス」
短いやり取り。怯えたように一部始終を見つめていたほかの生徒達に赤い瞳で一瞥すると、ポニーテール気味にまとめていた長い黒髪を解いて、青年の黒衣に包まれた。
そこには、二つの死体と乱雑に刃物の刃が切りつけた痕跡以外に何も残っていなかった。
091015